「臓器くじ」とは?あなたの倫理観がわかる思考実験
臓器くじ(サバイバル・ロッタリー)は「より多くの命を救うために少数の命は犠牲になってもよいのか」ということを考える倫理の思考実験です。
似た問題に、功利の怪物やトロッコ問題があります。
記事の目次
臓器くじの内容
たくさんの人が幸福になることは、「良いこと」だと誰もが思うでしょう。
しかし、多くの幸福のために少数の人が犠牲にならなければいけないとしたらどうでしょうか?
思考実験「臓器くじ(サバイバル・ロッタリー)」は、哲学者のジョン・ハリスが提案した、「より多くの幸せのために少数が犠牲になること」を考える倫理の思考実験です。
思考実験「臓器くじ」
とある国では、臓器移植を待つ患者はたくさんいるものの、臓器提供をしてくれる人はなかなかいませんでした。
そこで、定期的にくじ引きをして、健康な全国民の中から臓器提供者を1人選ぶ社会制度「臓器くじ制度」ができました。
くじ引きで選ばれた人は、臓器すべてを提供しなくてはいけません。
その人は臓器を提供することで死んでしまいますが、1人の臓器を分配することで、最低でも5人も患者を救えます。
また、臓器くじには公平に行うために下記のルールがあります。
- くじに不正行為は絶対に起こりえない
- 移植手術は必ず成功し、5人は絶対に助かる
- 人工臓器や死体移植など、くじ引き以外の臓器提供方法は無い
くじは完全に平等に行われるため、地位や権力、知名度、年齢を問わず、誰もが当たる可能性があります。
拒否権はなく、選ばれた人は臓器移植を待つ人のために犠牲にならなくてはいけません。
しかし、1人の犠牲により多くの患者が助かります。
さて、この臓器くじは正しい制度なのでしょうか?
臓器くじを考察!功利主義と倫理問題
現実での臓器移植は、臓器の一部を移植したり、ドナー登録をした人が脳死の判断を受けた際に臓器提供するといった形で行われます。
さらに、提供する人の家族の意思決定や、臓器と身体の相性もあるため、そう簡単に臓器移植が行われるわけではありません。
そのため臓器くじは、現実にはあり得ない制度ですが、思考実験として自分だったらどうするかお考え下さい。
たった一人が犠牲になることで、多くの患者が救える臓器くじ制度。
自分自身や家族が臓器移植を待つ患者であれば、この制度は非常にありがたいですよね。
しかし、多くの国民が「自分がいつ臓器くじで選ばれるか」という緊張感を抱えながら生活することになります。
この制度によるメリットもデメリットもあるのです。
さて、この制度は正しいのでしょうか?
臓器くじは主に、功利主義と倫理観の問題で議論されることが多い思考実験です。
それでは、それぞれの観点から賛成と反対意見を見比べ、考察を深めてみましょう。
功利主義の視点での臓器くじ
功利主義とは、ある行為により発生する快楽と苦痛の総量を計算し、幸福度の大きい行為こそが正しいとする考え方です。
これは、より大きな幸福・最大多数の幸福を求める考え方で、イギリスのジェレミ・ベンサムにより提唱されました。
臓器くじでは、功利主義の観点での議論がされることが多く、この思考実験を考えるのに重要なポイントとなっています。
それでは、功利主義の視点で臓器くじを見てみましょう。
賛成の意見
単純に、命が助かると幸福度がプラスに、命が犠牲になると幸福度がマイナスになるとしましょう。
臓器くじを行わない場合、臓器移植を待つ5人は助からないため、5人分の幸福度がマイナスになります。
しかし、臓器くじを行った場合、1人を犠牲にすることで5人の命が助かります。
臓器くじに当たった1人の幸福度はマイナスされますが、、助かった5人の幸福度がプラスされることになります。
- 臓器を行わなければマイナス5点
- 臓器くじを行えばプラス4点
こう考えると、臓器くじを行ったほうが幸福の総量は大きくなります。
功利主義では、より幸福度の高い行為が正しいため、単純な損得の計算で考えれば、臓器くじは正しいということになります。
反対の意見
同じ功利主義の観点でも、臓器くじへの反対意見もあります。
臓器くじが施行されたら、たくさんの健康な人が「次は自分がくじに当たるのではないか」と恐れて過ごす事になります。
そのような恐怖が常にある社会では、当然日々の生活の幸福度は下がってしまいますよね。
社会全体が幸福度の低い生活を送ることになるでしょう。
つまり、臓器くじで得られる幸福度を考えても、臓器くじを行うことで生じる社会全体の幸福度の損失のほうが大きい、と考えられます。
同じ功利主義の視点でも、実際に臓器くじが施行された社会では全体の幸福度が下がってしまうため臓器くじは正しくない、という見方もできるのです。
倫理問題で考えると?臓器くじは殺人?
次に、倫理観でこの問題を考えてみましょう。
実際にくじで選ばれた人を犠牲にし、臓器移植をしたと考えてみましょう。
この人は5人の身代わりという明確な意図をもって殺されます。
病気や事故で死ぬことに比べたら、臓器くじによる死は積極性の高い殺人であると考えられるのです。
直接的な殺人じゃないとはいえ、臓器くじの制度がある社会は殺人が認められる社会になってしまいます。
倫理的に認められるものではないといえるでしょう。
臓器くじを行わないことも殺人?
この反論として、臓器くじをしないことも殺人の一種に変わりないという意見があります。
臓器くじで命が救えるのならば、臓器くじを行わないでいることも殺人と動議である、という考えです
臓器くじによって命が犠牲になることは社会の積極的な殺人とも言えます。
反対に、臓器くじの制度を中止して臓器くじによる臓器提供で救える命を見捨てて、臓器提供を待つ患者を見殺しにすることは、消極的殺人と言えるでしょう。
倫理的な面で考えると、5人の命の消極的殺人か、1人の命の積極的殺人か、という選択肢が迫られ、どちらがより倫理的なのかを考える必要があります。
まとめ
臓器くじは、安全や効率の面からも現実で実施されることはほぼ有り得ません。
しかし、思考実験の一種として考えてみることで、極端な例を取り上げることで、自分の中の価値観を見直すことができます。
さらに、実際に自分や家族など大切な人が臓器移植を必要としていたら、など、細かい条件を付け加えると意見が変わってくるでしょう。
この思考実験には明確な答えがあるわけではありません。
臓器くじを行うことでより多くの命を救うのか……
臓器くじによる社会の不利益を考えるのか……
ぜひ、自分の納得のいく答えを探してみてください。